「一茶庵」片倉康雄のひとことがはじまり
昭和51年、八兵衛は、まだ自家製粉をするそば店が全国でも数店を数えるしかない頃、自家製粉・手打そばを始めました。それには、私が修行をした栃木県足利市にある、『一茶庵』の片倉康雄氏(故人)の影響があったといっても過言ではありません。
明治37年生まれの片倉先生は、大正15年、新宿駅東口に『一茶庵』というそば屋を創業しました。私が修行をしていたのは昭和46年3月から同48年3月までの丸二年。当時は住み込みで働いていたため、店の仕事が終わった後、群馬県太田にあるご自宅で、夜遅くまでお話を伺うことが出来ました。そば打ちの道具、内装、テーブルのデザイン、せいろの器、そば猪口等々、後のそば店への情熱や夢に大きな影響を与えてくださいました。
その修行の一年目、片倉先生が「そろそろ自家製粉を始めるか」と、石臼挽きの自家製粉機を造り、自家製粉を始めたのです。47年頃には、食味評論家の多田鉄之助氏とともに、東京上野にある東天紅にて『日本そば大学講座』を開校し、その助手を勤めさせていただきました。この二年間は、その後の私の基本で、開業から今日に至るまでの判断基準を作り上げてくれた二年間でした。
「そろそろ自家製粉の時代だね」の片倉先生の言葉は、手打ちそば屋の少ない当時、「手打ちそばの技術を会得して開業できれば成功間違いないだろう」と思っている私に、「そうか、もっとお客様から注目される、自家製粉という方法があったんだ」と、目から鱗が落ちるような感動を覚え、「必ず自家製粉・手打そばの店を実現させるぞ」と、決心させてくれたのです。
念願の自家製粉。しかし、求めていた蕎麦粉ができない。
自家製粉とは蕎麦屋が自ら蕎麦粉を挽くという意味です。江戸・明治と製粉会社が発達するまでは、玄蕎麦の実から殻をはずした状態の『丸抜』を作り、手挽きの石臼で挽き、フルイでふるって製粉をするというのが当たり前の作業だったようです。その後、製粉会社が発達し、そば屋は自家製粉の労から開放され、今日まで来たわけです。その結果、蕎麦粉の味に大きく影響する玄蕎麦の産地、製粉方法、蕎麦粉の粒子の粗さ、挽いてから使用するまでの時間や管理等を製粉会社が行うようになり、蕎麦屋は『蕎麦を打つ』だけになってしまったのです。『蕎麦を打つ』ということだけを見れば、蕎麦粉に水を入れてよくしみこませ、粘りを出して乾かさないで均一に伸ばし、均一に包丁で切るという、一連の手打ちの作業の中で味に大きな影響を及ぼすものはありません。もちろん、蕎麦の表面の滑らかさ、硬さなど、加水量や手打ち技術の良し悪しでも影響はありますが、突き詰めて行けば行く程、蕎麦粉の質の良し悪しが、蕎麦のうまさを左右します。「粉こそが命だ」、「蕎麦屋が独自の粉を作るべきだ」と、粉をよく吟味されながら片倉先生は話してくださったのを憶えています。
八兵衛は、昭和50年開業後の翌51年から自家製粉機を導入しました。当時は蕎麦屋一店が消費するだけの少生産量の製粉機など製造されておらず、製粉会社向けの大型製粉機しかありませんでした。石臼が回転する機械を近くの機械屋さんに作ってもらい、フルイは静岡市の石上機械さんにあった、一番小さなフルイの機械の設計図で作ってもらいました。小さいといっても直径54.5cm、厚み20cmで、用意した製粉室兼手打場内にやっと収まるサイズでした。蕎麦粉の挽き方には2種類あります。玄蕎麦の実から殻を取り除いた『丸抜』を作り、『丸抜』から挽く『本挽き』。玄蕎麦の殻を取り去ることなく殻ごと挽く『押し挽き』の2種類です。現在、『本挽き』で自家製粉を行っている蕎麦屋の数が、『押し挽き』より多いのが実情です。それは、江戸時代中期から発展した蕎麦文化の流れがあると思われます。江戸中期以前は『殻』ごと挽く『押し挽き』(いわゆる田舎蕎麦)が主流でしたが、江戸中期以降は、コシのある食感の良い蕎麦が出来る『殻』を取り除く『丸抜き』した蕎麦の実を挽く『本挽き』が主流になりました。この違いは次章でご説明しますが、蕎麦の味がまるで違います。私も当初は、石臼の機械で上臼を上げて摩擦を弱くして殻を取り去り、『丸抜き』が作れるようにならないだろうかと試みましたが、無駄な部分が出てしまい、うまくいきませんでした。私の頭の中にはやはり『丸抜き』を『本挽き』にして蕎麦粉を作ることが本道だと思う気持ちがありましたが、蕎麦粉の品質には問題がない事がわかっていましたので、自家製粉機での挽き方も、機械を改良することなく『押し挽き』で始めることにしました。しかし、これが今の八兵衛のそばとしての『こだわり』の始まりだったのです。
本道の『本挽き』か、キレの八兵衛流『押し挽き』か。
『本挽き』の蕎麦についてお話しますと、『本挽き』の蕎麦粉は、『殻』をあらかじめ取り除く『丸抜き』という作業をした蕎麦の実を、良く挽ける目立ての石臼で粉を挽き、50メッシュから120メッシュの細かいフルイにかけます。ここで出来る蕎麦粉は白くコシのあるものです。コシが出るのは、『甘皮』がつなぎの役目をしてくれるからです。『十割蕎麦』というのがありますが、それは、この『丸抜き』をした『本挽き』の蕎麦粉であれば簡単に打てるものなのです。『中力粉』などのつなぎの粉を使用しなくても、蕎麦粉自体につなぎ素材が混ざっているため、簡単に蕎麦が打てるのです。しかし反面、茹でた蕎麦が硬くなり、歯切れの悪い蕎麦になってしまうと私は思います。
味については好みの問題でございますので、なんとも申し上げれませんが、私の好みで申し上げれば、『押し挽き』の蕎麦粉で打った蕎麦のほうが断然旨いと思っております。ただし、八兵衛流の『押し挽き』というのが前提にあります。なんのこだわりもなく『押し挽き』で粉を挽いた場合、石臼の目立てやフルイのかけ方によって違いますが、『殻』や『本挽き』と同じように『甘皮』まで挽いてしまうので、蕎麦が粗く黒くなり、蕎麦自体の食感がボソボソなってしまいます。そこで、八兵衛の石臼は、目立てをある意味良く挽けないようにしてあります。いわゆる手挽きの石臼と同じ状態を目指したものです。『殻』はまったく挽けませんし、『甘皮』も挽けにくい目立てになっています。この石臼で挽いた粉を、12メッシュと50メッシュの2つのフルイを上下にしてフルイにかけます。12メッシュのフルイで『殻』と『ふすま』というものを取り除き、50メッシュのフルイで『細かな殻』『甘皮』を取り除きます。この粉が八兵衛の『一番粉』になるわけです。製粉会社が使用する120メッシュの細かいフルイを使用した粉と比較しますと、大変粗い粉になるのですが、その代わりに甘皮がほとんど入っていない粉になっているわけです。
出来上がった蕎麦粉は、手で握ると「キュッ、キュッ」と鳴く粉で、団子にならずさらさらと崩れる粉で、手挽きの石臼で挽いたような粉が作れたのです。加水量も多く、茹で上げると透明感があり、淡い香りの『キレ』のある蕎麦が出来ました。ただし、切れやすく打ちづらい粉ですが、味としては絶品だと思っています。玄蕎麦から出来る『一番粉』は約50%程度です。50メッシュのフルイに残った粉を、もう一度石臼で挽き、フルイにかけ20%程度の粉が出来ます。その粉が『二番粉』になります。さらに残った粉は、もう一度同じ工程を繰り返します。それが『三番粉』になります。八兵衛の『せいろ』は『一番粉』と『二番粉』を合わせたもの使用しています。『三番粉』は使用していません。『一番粉』『二番粉』と『中力粉』の『二八蕎麦』が八兵衛の蕎麦です。
旨い蕎麦を求め、本流を目指しながら試行錯誤を繰り返して来たわけですが、気がつけば独自の道を歩いて来たようです。蕎麦というのは、シンプルな食べ物ですが、求めれば求める程、奥深さを感じさせてくれる食べ物だと感じています。常に精進を重ね、お客様との出会いを一期一会と思い、一品一品を大切におもてなしさせていただきます。